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赤壁の戦いの前後に、孫権は合肥を攻撃したが、曹操は張憙に千人の兵と汝南で集めた兵を率いさせて合肥の救援に向かわせた。そして曹操配下の蒋済が流した、「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、孫盛は「赤壁の戦いで劉備らが曹操を破った後、孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。
南郡に進撃した連合軍は、曹仁と長江を挟んで対峙した。甘寧は夷陵城を奪取することを提案し、周瑜はこの提案を採用、甘寧は数百人の部隊で夷陵城を奪取した。曹仁は甘寧に対し即座に五千人規模の部隊を派遣し夷陵を包囲させた。このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に守りをまかせ、自ら夷陵城を包囲する敵軍を攻撃して破り、夷陵を完全確保することに成功した。
その後、曹仁は周瑜に重傷を負わせるなど善戦したが、交戦開始から一年を越えていたのと、江陵で周瑜・劉備らに包囲され、関羽にも北道を封鎖されたため窮地に陥った。だが、李通が関羽を攻撃し、周瑜・劉備らの包囲陣に突入し、曹仁軍を救出したため、曹仁らは江陵を捨て撤退した。こうして、周瑜らは江陵を占拠し、南郡を平定した。この間、劉備軍は荊州南部の四郡を短期間に平定し大きく勢力を伸ばした。
曹操はこの戦いでの先物取引
があまりにも大きかったためか、劉備・周瑜らの荊州攻めに全くと言ってよい程、効果的な手を打てず、一度は確保した荊州の南郡以南を全て失った。
『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。もちろん『三国志演義』はフィクションであり、以下の記述には創作が多々含まれている(三国志演義の著者・羅貫中は朱元璋・陳友諒と元末の覇を争った張士誠に仕えたとされ、朱元璋が陳友諒を打ち破った?陽湖の戦いを元にしているという説がある)。
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いてFX 初心者
を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉jと後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を合わせ百万と号した。
劉備は諸葛亮の進言を容れず荊州を奪う事を諦め、曹操軍に追われながらひたすら南に逃げるが、大量の領民を引き連れたため進軍速度が上がらず、長坂坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れ、夏口の劉gの下へ落ち延びる。
一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権はこの報に驚き、文官武官を集めて降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していたが、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。このとき孫権は自分の机を刀で切りつけ、「これより降伏を口にした者は、この机と同じくなると思え」と言い放ち、開戦を宣言する。当初、周瑜は魏に降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻である姉妹)を欲しがっていると聞かされ、怒って孫権に対して戦うようにと主張した。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を先物取引
にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。
周瑜は諸葛亮にわざと日経225
を与えて処断させることを企図して「十万本の矢を集めて欲しい」と依頼を出す。しかし、諸葛亮は自ら三日と期日を決めて快諾。夜霧に乗じて船を出し、曹操軍から十万本の矢を船に射掛けさせて矢を回収[3]した。
そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。また、火計を効果的にするために、当時まだ野にいた?統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く[4]。
機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であるし、殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。
赤壁の古戦場と伝えられる場所は、長江・漢水沿いに数カ所存在し、その是非については現在も議論があるが、有名なものは二箇所ある。
現在の湖北省蒲圻市(現:赤壁市)西南の長江南岸に位置する赤壁山である。ここは実際の古戦場として現在最も有力視され、「三国赤壁(別名、武赤壁)」と呼ばれている。
北宋の文人蘇軾(蘇東坡)が名作「赤壁の賦」を書いたことで有名な偽の赤壁である。こちらは湖北省黄州市西北の長江北岸の赤鼻山を指し、「東坡赤壁(別名、文赤壁)」と呼ばれる。この地は実際の戦場ではなかったのだが、晩唐の詩人杜牧が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の作品によって、実際の古戦場以上に有名になってしまった[5]。なお、東坡赤壁は長江の流れが変遷したため、現在は長江に面していない。
^ 現在の湖北省
^ 『三国志』呉書周瑜伝の注に引く『江表伝』には、曹操は「病が流行したから船を焼いて退却したのだが、周瑜に虚名を得させる事になった。」と孫権への手紙に書いたとある。
^ 元より史書にない逸話だが、『三国志』の裴松之註には、船で偵察に出た孫権が矢を片舷に受けて船が傾いたため、反対側を敵に向けて矢を受けてバランスを取った(『魏略』)という類似の記述が載る。
^ 民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初めから知っていたと言う話やドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある。
^ ちなみに、杜牧・蘇軾の両者とも、ここが実際の戦場でなかったことを承知の上で作品を書いたらしい
費?の死後、蜀の衛将軍姜維は大軍を率いての北伐を開始した。253年(延熙16年)、武都より進撃して南安に篭る陳泰を包囲したが、兵糧が尽きて撤退する。翌254年(延熙17年)には隴西へ出撃し、狄道県の李簡が密かに降伏を願い出たのを皮切りに魏の将徐質を破るなどの戦果を挙げ、河関・狄道・臨?の三県の住民を蜀に連行した。このとき張嶷が陣没している。
さらに翌255年(延熙18年)には車騎将軍夏侯覇とともに狄道に進出し、?水の西で雍州の刺史王経を撃破して魏兵数万人を殺した。王経は狄道城に逃げ、姜維はそれを追う。蜀の鎮南大将軍張翼は「追撃すべきではない」と言ったが姜維はこれを聞き入れず狄道城を包囲した。しかし魏の征西将軍陳泰が救援を率いてきたので退却した。
魏では前年の敗北の損害が大きく、長安以西の守備は危機的な状況にあった。皇帝曹髦はケ艾を安西将軍に任命し、雍州・涼州諸方面を固めるよう命じた。ケ艾は姜維の行動を先読みし再び北伐すると考え兵を鍛錬し、守りを固める。一方蜀は、姜維が大将軍に就き、鎮西大将軍胡済と連繋して上?で合流し、魏を破る計画を立てる。だが、肝心の胡済が現れず、さらにケ艾に動きを読まれたために攻勢は失敗し、姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に打ち破られる。なお、三国志演義などでは蜀将張嶷はここで陳泰に討ち取られたことになっている。
このとき魏は2桁にのぼる将を斬り、4桁の兵の首級をあげたといわれる。すなわち蜀は、諸葛亮の北伐時代から転戦している経験豊富な精鋭の外征軍と、それを率いる優秀な部隊長の多くを失った。元々諸葛亮没後は魏と比べて目に見えて軍の力が衰えていた蜀だったが、この段谷での大敗でそれは決定的なものとなり、蜀が長安ひいては中原を奪回することは非常に難しい(ほぼ不可能に近い)状態になったと言える。事実、軍が弱体化した蜀がこれ以降魏へと攻め入った戦役はほとんどなくなり、防戦一方で国防にも事を欠くようになっていく。ケ艾はこの功績で鎮西将軍に昇進した。
戦いに敗れた蜀は西方で離叛が相次ぎ、姜維は諸葛亮に倣い失策を認めて降格を願い出、後将軍となった。だが、合流地点に到着しなかった胡済については何の責任も問われていない。
その後は翌年諸葛誕が反乱を起こすと姜維は再び軍勢数万を率いて北伐を行った。このとき魏軍は大将軍司馬望が守備を固め、ケ艾が援軍を率いてきた。さらに次の年になって諸葛誕が敗れると蜀軍は戦わず撤退し、姜維は大将軍に復帰している。この年、姜維は漢中の防衛について建議し、秦嶺山脈の諸陣地の守備隊を漢城・楽城まで下げ、敵を深く侵入させて撃滅する作戦をとり、胡済を後方に下げた。