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馬超は212年に韋康を殺害するなど、しばらくは関中において抵抗を続けた。しかしそれも長くは続かず、曹操軍の涼州方面司令官夏侯淵に討伐され敗北し、漢中の張魯に降る。やがて馬超は張魯に見切りを付けてその元を去り、成都の劉璋を攻めていた劉備に帰順。劉備と共に成都を攻め、益州(蜀)を手中にした劉備の客将として一生を終える。
他方、韓遂は羌族と組んで同じく夏侯淵と戦うが敗れ、西の果て西平に逃れて病死した(殺害されたとも)。曹操は馬超・韓遂両名の没落と前後して、夏侯淵ら諸将に命じて楊秋や梁興といった関中十部の残党や独立勢力の宋建を下して涼州を平定し、やがては漢中の張魯も降伏させ一時的に漢中を手中におさめるも、まもなく漢中の支配権をめぐって劉備と争うことになる。(定軍山の戦い)
三国志演義においては馬超の挙兵と馬一族の殺害の順序が逆になっており、馬超は一族を殺された復讐の念から曹操に兵を挙げるという意匠になっている。戦役においては史実以上に馬超の活躍は華々しく、一時は呂布を彷彿とさせるような鬼神ぶりで曹操を追い詰めるも、結果的にはやはり離間の計で韓遂と仲違し、敗北する。
潼関の戦いには曹操の息子・曹植が従軍していたが、通説によるとこの時、曹丕は弟の無事を祈って「感離賦」を作り、曹植は洛陽を通過した際「送応氏」を作り、旅立つ友人を見送ったとされる(ただし制作の繋年については異説もある)。
陽平関の戦い(ようへいかん の たたかい)は、中国の後漢末期に起きた争乱のひとつ。215年、曹操が漢中を支配する五斗米道の張魯を陽平関で撃破し、漢中制圧の道を開いた戦い。
211年、曹操は潼関の戦いに大勝利し、その威信を完全に回復した。これにより西の憂いが消えた曹操が次に狙ったのは漢中であり、仮にこれを落とせば蜀も視野に入る。一方214年5月、成都に無血入城した劉備は、いち早く蜀を足場としたため、孫権は劉備に対し行動を起した。7月、孫権は荊州返還を求めて劉備に使者を出すも、劉備はこれに取り合わなかったため事態が紛糾、劉備と孫権との間でにわかに荊州争奪の争いが生じた。
曹操は、こうした両者の争いを横目に、漢中へ侵攻した。
峻険な山々に囲まれ天然の要害となっていた漢中は、かつて劉邦ゆかりの漢の国名に由来する地であり、それゆえに曹操は是が非でも我が物にしようとしたとされる。しかし、難攻不落の要衝である陽平関を突破できず、曹操軍は足止めを余儀なくされた。一方、これを迎え撃つ張魯は、大軍を擁する曹操に対し、出兵すれば多大な犠牲が出ることを恐れ、戦うことには消極的であったが、軍権を任されていた弟にあたる張衛の強行的な判断によって、出兵が断行された。はじめ、張衛軍は曹操軍を劣勢に追い込み、曹操は形勢不利と見て撤退を開始した。しかし、曹操は劉曄の提案に従い再び陽平関を攻め、曹操が撤退したと思い油断していた張衛軍を夜襲と弓矢の大規模な攻撃で大いに破った。張衛は逃走し、曹操は陽平関を占領した。
董昭らの上奏文では、曹操軍の夜襲は偶然によるものだとしている。このとき曹操は本気で撤退を決めており、夏侯惇・許?に山上に陣取る先鋒の高祚軍を引き揚げさせた。曹操軍が撤退することを知った張衛は警戒を解いたが、夜中に数千頭の鹿が陣に飛び込んできて張衛軍は仰天した。さらに撤退中の高祚軍は夜中のために道に迷い、知らず知らずのうちに張衛の陣に迷い込んでいた。少数の高祚軍は味方を呼ぶために軍鼓を打ち鳴らしたが、張衛軍はそれを曹操軍の夜襲と勘違いして大混乱に陥った。後続軍の監督をしていた劉曄はここで攻めれば張衛を打ち破れると判断し、早馬で曹操に再攻撃を進言した。ここで曹操は再攻撃を決意し、大量の弩をもって敵陣を攻撃して張衛を撃破したとされている。
陽平関が落とされたと知るや張魯は巴中へ敗走を決めたが、このとき彼は兵糧や宝物を倉に貯めたまま手をかけず、不動産投資
で残したとされる。その後曹操は降伏した張魯の行いを賞賛し、鎮南将軍に任じ遇した。
曹操陣営では戦いに勝利した勢いをかって、そのまま蜀へなだれ込むべきだとの臣下の意見も出たが、曹操は「これ以上の欲は持つものではない。漢中制圧が実現できたことで、いくさの目的は達した」と素早く軍を引き揚げたという。
遼隧の戦い(りょうすいのたたかい)は、中国の三国時代に遼東の遼隧(現在の遼寧省・海城市)でおきた争乱で、遼東を代々支配し半ば独立政権を築いた公孫氏と魏との大規模な軍事衝突をさす。236年から238年まで続き、結果、外為
が滅亡した。
公孫氏は、後漢の時代より遼東半島に移り住み、その地で勢力を強めたが、当時の中国歴代の王朝は遼東を絶域としており周辺の異民族との流通交易の一切を行なってこなかった。そのため、公孫氏が代々、半独立の政権を築く流れに拍車をかけていった。のちに後漢末期の戦乱を経て三国鼎立後、一転して国益と隣国への牽制もかねて魏をはじめとする王朝が辺境部族と交流をもちかけるようになると、公孫氏もまた、魏に臣従する姿勢を見せながら呉の孫権とも結ぶなどして局外中立の道を模索せざるを得なかった。そうしたなかで呉は、蜀の北伐を横目に幾度か遼東に周賀と裴潜を送り込もうと謀るも、魏の田豫に敗戦。これを利用しようと公孫氏の全権・公孫淵は、孫権に使節を送り呉に恭順を示すふりをしながらも、呉からの使者を襲撃し、その首を魏に送ることで、曹叡より楽浪公と専断権を勝ち得るなどして巧みな外交で乗り切った。
237年、ついに高句麗と通じ遼東へ外為
した孫権は、魏が派遣した毋丘倹と対陣。毋丘倹は鮮卑らに命じて軍を遼東に駐屯させたことで、孫権は臣下の強まる反発の声をうけ、いったん親征を断念する。この機に、魏は公孫淵に対し上洛を命じたが、公孫淵は断固拒否した。同年、公孫氏は挙兵して遼隧で毋丘倹と戦い、これを撃退する。これを契機として、公孫淵は燕王を称して、年号を紹漢と定め独立政権確立を宣言。周辺の部族を掌握して玉璽を与え、魏との国の境をめぐって抗戦をやめることはなかった。
238年になり、公孫氏の台頭に業を煮やした魏の曹叡は、太尉の司馬懿を4万余の兵とともに公孫淵征伐に遼東に派遣した。公孫淵もまた、卑衍・楊祚らに数万の軍を率いさせて遼隧に派遣した。公孫淵は、遼隧に数十里(『三国志』には二十里、『晋書』には六〜七十里ほどと記されている)の塹壕をほり、司馬懿の軍を迎え撃ったと言われる。司馬懿が遼東に到着すると、公孫淵は卑衍に司馬懿を迎え撃たせたが、司馬懿は胡遵らを派遣して卑衍を破った。遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だと見た司馬懿は、いちど東南に退却したとみせかけて、国都の襄平に侵攻。公孫淵は、遼隧に残した軍をやむなく撤退させ都の守備に当たらせたが、この後は次第に防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲される。
同じ頃、公孫淵は孫権に謝罪とともに援軍を求める使いを出したとされる。しかし、長雨の時期にさしかかり兵糧も底をつきてしまったため、公孫淵は人質を出して落ち延びようと画策するが、司馬懿はこれを許さず公孫淵を捕え、処刑。その子公孫脩、くりっく365
も次々と討たれ、こうして遼東公孫氏は滅ぼされた。
その戦後処理で司馬懿は、魏に対する反抗勢力を再び生まぬためもあり、一帯に生き残った15歳以上の男子を皆殺しにし、夥しい数の亡き骸で京観を作ったことが知られ、後世に伝わる。
遼東を支配していワラント
が滅亡した同じ年、倭国が魏に使節を派遣。奇しくも、公孫氏の支配が遼東半島から消滅した事で、日本はこの時点より中国大陸の文化に触れることが可能になった。
遼東公孫氏を滅ぼした魏は、その後も手を緩めず完全に遼東半島を勢力下に置き、ついには高句麗とも国の境をめぐって衝突するようになった。244年、魏は毋丘倹を送り、高句麗侵攻のすえに陥落させるまでにいたる。
魏の内部では公孫氏滅亡を遠因として、軍権を握った司馬氏と国権を強化しようとする曹爽とのあいだで政争が表面化し、11年後の249年に曹爽派を一掃した司馬氏が魏の実権を握る。この台頭で、ついには司馬氏を主導とした新政権の道筋を作っている。
五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)とは中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。なお十六国とは北魏末期の史官崔鴻が私撰した『十六国春秋』にもとづくものであり、実際の国数は16国を超える。
後漢末期から北方遊牧民族の華北移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、永嘉の乱として爆発させた。
五胡とは匈奴・鮮卑・羯・?・羌の五つの事であるが、羯は匈奴の中の一派であって、これを一と数えるのは少々無理がある。羯の石勒が後趙を建てたからとするならば、鮮卑は拓跋部・慕容部・禿髪部・乞伏部がそれぞれ別の国を建てており、それぞれを数えなくてはならなくなる。五と言う数字は五行説に結びつけた結果と考えられるので、五胡は「複数の民族」と言うように解釈するべきだろう。そしてその複数の民族の中には漢族が含まれている。
また匈奴によって建てられた前趙、鮮卑慕容部によって建てられた前燕と言った言い方をするが、これはあくまで中心となって建てた民族であり、その国家の中には複数の民族が混在していた。
胡の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるので近年使用が控えられるようになり、それに代わり東晋十六国の名前が使われるようになってきた。ただし五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含むため、この用語も完全に適切とは言いがたい。